昭和41年3月9日 夜の御理解
本気で信心をしてみると、そこには、はっきりおかげがあらわれる体験が生まれる、一心でしかも本気で、必ず、そこに生きいきとした神様の働きを目の当たりに、または感ずることが出来ると。
今日は、久富先生が会議の都合でから、御無礼された。ですから、今日はもう、長男が、久富先生の分も、自分の時間と合わせて四時間、奉仕さして頂いた。ちょっとこの本気でならせて頂きますとですね、もう私は、控えで、次々とお参りをして来る方たちを、お取次ぎさせて頂いておるのを、聞かせて頂きながら、良いお取次ぎが出来よるなあ、と私今日御礼ばかり申し上げておったんですけれども、本気になっておるとですね、御取次ぎさせて頂くそのことが、有難くて楽しいんです。どうかやっぱり、ひところなっとん、御理解伝えないとおられないのです。それがあちら控えで聞いておる、にまで響いてくるんです。
今日はちょうど、四時間余りの間に、四時間の間に三十名から、お取次ぎさせて頂いております、勝彦が。ですから本気になるということですね、有難い。私、その中にある方にお取次ぎさせて頂いておると、あらためて、私自身頂いたんですけれども、まあ何か、自分の思う通りにならなかったといったようなお取次ぎ、私、耳が厚いから充分に聞こえませんけれども、いうようなお届けだったらしいんです。そしたら、その、長男が、御取次ぎさせて頂きよるとこだけが、所々聞こえてくるんです。「幸福、幸せの鍵を握ってござるのは神様ですから、人間の浅い願い、思いというものが、右になったか左になったことなんかは、問題じゃありません。ほんとのおかげの鍵は神様が握ってござるのですから、神様のご都合として頂いていけば、それがおかげです」という意味のことを伝えておるのですねえ。もう、ほんとにその通りなのですからねえ。私どもの願いというものは、もうほんとに浅はかなものです。それが思うようになったとか、ならなかったとかが問題じゃない、御取次ぎを頂いて、それが右になろうが左になろうがです、神様のおかげを下さろうとする働きなんです。まあ、こむつかしくいうとですね、私流儀になりますけれども、とりわけ長男のは、もっともっと短い簡潔な言葉だったです。もう、幸福の鍵を握ってござるのは神様ですから。神様の働きの通りにこちら進んで行けばそれでいいんです。右左のことは問題じゃあないです、ということを、もっともっと簡潔な言葉で言っておるんですね。それから、私、頂きましたのがですね、もう桜の花がいっぱい咲いておる所とですね、あの椿の花がいっぱい咲いている所を頂いたんです。これどういうことだろうかと思って、ご理解頂かせてもらったらですね、例えば、御理解にもですね、例えば、桜の花なんかは、一枝よりも二枝、たくさんでなからなければ、桜の花っていうものは、美しくないですね。ところが、椿の花なんかっていうものはですね、もうひとむらにいっぱい、こう咲き誇っておる椿の花なんかっていうものは、何かしらむしろ、いやらしいくらいでしょうが。真っ赤な椿がこう咲いて、…ね。これを、例えば一輪挿しの、例えば、椿をです、一枝、それがさせれておる時、それが何とも言えん、むしろ葉でも何でも、むしろむしってしまったような花を一輪挿しておくことによって、これ椿だけしか持たない、その良い味わいのものがあるようにですね、御理解でもそういうような場合があります。もう、桜のようにですね、盛りだくさんに、何という素晴らしい御理解じゃろか、有難い御理解じゃった、というような御理解とですね、もう、一言でピシャッと決まるような、それこそ椿の花のその一輪でです、「ああ、素晴らしい、おかげ頂きました」、と言わずにおられないような御理解があるんですよ。ここのところを頂いていかなければいけない、と思うですね。
今日、私、例によって散歩にでらして頂いたんです。今日はもう、これからずうっと歩かしてもらってから、合楽、それから合楽一回りさせて頂いてから、あれから草野の駅へ出ました。草野の駅から、ずうっと草野の下通り行って、せんねんじの村に初めて行きました。あのお墓の中を通って、あそこ幼稚園でしょ。保育園の中を通って、せんねんじの所、祇園さんの前へ出て、それから町をずうっと行って、また横町を下ってから、久大線の下へ出て帰ってまいりました。ちょうど、原さんが、あちら担当でございましたから、原さんも、ならお供で行きましょうと、単車ずうっと押してから、あの上り坂着いてからだったんですよね。その途中に私、一本の鉛筆をひらった。それは、もう、きれいな立派なこんな鉛筆なんですよ。そして、私は、その感じるのですよねえ、この鉛筆の御理解は、身を削れ、と。芯が出る、と。「鉛筆でもやはり削らなければ、芯が出らん」といった御理解がありますが、私は思うですね。この心を磨くというけれどもですね、その芯を出さなければ心は磨かれないということ。ということは、身を削るくらいの、ひとつの修行でも、本気でさせて頂こうということにならないと、芯は出らんいうこと。例えば、なら、皆さんが、こうして毎日お参りになる。特に、朝の御祈念なんかにお参りなんかになる方達なんかは、あれは修行ですね。ひとつの形の行です。身を削らなければ、眠たい時間を削らなければ、お参り出来ませんもんねえ。
遅い方は、十一時、十二時までも起きておられる方がありますよ。夕べなんかは、十二時過ぎてです、皆さん帰られましたのは。青年部の方たち。それで、やっぱりみんな出て来てますもんねえ、朝の御祈念に。ですから、これなんかやはりその眠たい時間を削るのですから、身を削る、これは、しかし、芯は出らんということ、芯を出しもせんでおいてから、芯を磨こうとしても磨けるはずがないということ、といったようなことを私、この鉛筆を拾うて感じたんですねえ。やっぱり、修業せなきゃあいけません。修業しなければ芯が出ません。・・?の芯を捕まえておいて・・・?の芯を磨かしてもらうということ。そこに、生き生きとしたものが生まれてくる。生き生きとして神様に向かえばです、例えば、今日の長男ではないですけれども、ほんとに若先生らしい御取次ぎが出来ておる、良い御取次ぎが出来ておる、と私が思う。一言で、みんなががおかげ頂いて帰る。私、そんなことを今日は感じさせて頂きました。私のご理解は、どうも盛りだくさんの、こう、桜の花のような方になってくる。もう一言で決まるようなですからね、それこそ椿の花一輪が、えもいわれぬ、風情のある花になるようにです、一輪で、一言で決まるような御理解が説けるようにならなければならんな、といったようなことを考えた。
どうぞ、おかげ頂きますように。